献じる花は純白の

 五月一三日。
 この日になると、必ず匂い立つ唐撫子の甘い香り。
 玄関を出て、階段でできた段差を下りる。家の下に作った、個人駐車場の前に花束が一つ、置かれていた。
 手に取ってみれば、丁寧に包装された紙がカサッと渇いた音を立てた。
(……まただ)
 また――花の匂いがする。
 また、この日がやってきた。
 母の命日。
 “あなたが嫌いです”なんて花言葉の唐撫子の花束を、一体誰が置いていくのだろう。

   *

(今日こそは、捕まえる)
 再び巡ってきた命日。
 今年で丁度五年目だ。今日のために仕事の休みをとった。徹夜する準備は万段だ。夜のうちに置いていくのは間違いないのだ。
(来た)
 人影が近づいてきた。
 車の中。こんな夜中で、意識もしていないんじゃ気づかれないが声を殺して時を待つ。
 早まってはいけない。
 確実に。
 相手が、車の前に花束を置いたら――。
(今だ!)
 無我夢中で車を飛び出した。
 一瞬辺りを見回して、花を捨てるように置くと人影が逃げ出す。小さく舌打ちをした。
 こう見えても体力には自信がある。
 大きく地面を蹴り上げ、飛びつくように背中を掴んだ。もつれるようにして人影と地面を転がる。
 小さな、か細い悲鳴がした。
 細い体はぷるぷると震えている。
(女の子?)
 潤んだ目でこちらを見る少女の愛らしさに息を呑んだ。
 アーモンドのような大きな瞳。桃色のリボンで二つに結ばれた髪は綺麗なブラウン色で、緩やかなウエーブを描いて細い肩にかかっている。薄い唇が「あの」と声をあげた。
 夜の冷えた空気に通る、綺麗な声。
「初めまして。川内椛と申します。鍼野真佐美様ですね」
「え、あ……はい」
「あの、よろしければお線香をあげても良いでしょうか」
 突然の申しでに言葉を失った。
 何もいわぬ真佐美に戸惑っているらしい。きょろきょろと不審に辺りを見回している。
「良いけど、あなた。母とどういう知り合い?」
「お母様……というよりも」
 彼女は上品に口元に手を添え、顔を僅かに背けた。動作がどこかおっとりとしていて可愛らしい。
「犯人の知り合いなんです」
 重たくその声が耳に張り付く。
 一瞬、理解ができなかった。母親は五年前事故で亡くなった。駐車をしている最中。急に角を曲がってきた、誘拐犯の男が突っ込んできたらしい。そこに乗っていた攫われた少女は高熱と事故の怪我で、すぐに病院に運ばれ、母とその男は死亡した。
 あの男の、知り合い。
「帰って」
「……あの」
 少女が何か言う前に声を張った。
「帰ってください! できればもう忘れたいの」
 静まり返ったその場に、自分の荒い息だけが響いた。
 興奮しているのだと冷えた夜風を浴びて、ようやく理解した。様子を窺うように椛を見れば、ざっくりと傷ついた顔をしている。
 これでは、どちらが悪者か分かったものではない。やりきれなさに唇を噛んでいると、彼女の方から声がかかった。
「――ごめんなさい。そうですよね。申し訳ありませんでした」
 彼女は掴んでいた背中をもぞもぞと動かし、抜け出すとゆらりと立ち上がった。青白くさえ見える白肌が、夜目に鮮やかだった。去ろうとした足に、赤いすり傷のようなものが見えた。
 先ほど転んだ時に怪我をしたんだろうか。 
「待って」
 遠ざかる背中に声をかける。白い足の動きがぴたりと止まった。
「怪我してるでしょ。絆創膏だけ貼ってあげる」
「……いえ、これは」
「何も言わなくて良いわ。治療をしたいだけなの。ついてきて」
 立ち上がり、落ちていた花束を拾いながら、家へと続く段差を上る。立ち尽くしたままの彼女を、じっと見つめる。慌てたようにひょこひょこついてきた。招くように家の扉を開け、入るように促す。
(何をやっているんだろう。私は)
 手に持った花を捨てられずにいる。
 パタンッと扉が閉まる音がした。眩みそうなほどの、花の匂い。それでも――これしかなかった。
 五年間。私と母を繋ぎとめてくれていたもの。
 憎しみなのか、感謝なのか分からない揺らぐ瞳を向けた。睨まれたと思ったのか俯いてしまった彼女に、何も言わず家の奥へと進んだ。

  *

 彼女は出された茶を凝視していた。
 どうぞと声をかけると、ほっとしたように茶碗を両手で持ちちょこちょこと飲む。
 机を挟んだ目の前の椅子に腰掛けると、彼女がおもむろに茶を飲むのを止めた。
「それで」
 話を切り出すと、机の上に飲みかけの茶の入った椀を置く。
「どうしてこの五年間。花をあんな所に?」
「……分からなかったんです。花を直接贈って良いのか」
「そうね」
「ご迷惑、でしたか?」
 その問いにそっと瞼を落とした。
 真っ暗な闇の中、過ぎった風景。線香の匂い、黒い行列。渇いた目で立っている自分と、啜り泣く親族。そっと横目で見れば、白い棺を取り囲むように置かれた花祭壇。
 出棺前の光景も蘇ってきた。
 花を母の耳元へ静かに添えた。閉まる棺。消えていく母の顔。泣き崩れた自分。
(花、花、花――)
 どこを見ても、花ばっかりだ。
「迷惑ではないわ。ただ、悲しくなるの」
「悲しい?」
「ええ。……何だか、惨めな気分になるのよ」
 理解ができないのか、理解はできても呑み込めないのか。彼女が何回か瞬きをした。
「分からなくても良いの。分かって欲しいなんて、思っていないのよ」
「なら、どうして?」
「ただ。あなたに知って欲しかったの。花は贈らないで欲しいと」
「あ、ごめんなさい」
「良いの。母に、お花をあげてくれるの。あなたしかいないもの」
「あの、でも鍼野さんが」
「私はあげないわ。この一年。お花を墓に添えたことないのよ」
 静まり返った部屋。
 手にしていた花束はとりあえず玄関に置いてある。それなのに、むせ返るほどの花の香り。
 きっと、この子に染み付いているのだ。
 そしてその香りはもうきっと、この子から落ちはしない。
「笑ってちょうだい。もう五年も経っているというのに、未だに親の死を受け止められないのよ」
 自嘲ぎみに笑って見せると、彼女が哀しげに眉尻を落とした。その苦しげな表情を見ていると、酷く苛ついて胸がざわめいた。
「笑いませんよ」
「あら。どうして?」
「私も、同じだからです」
 同じ? この子と自分とが?
 目を凝らして彼女を見つめる。露骨な疑いの眼差しに苦々しい顔をすることもなく、彼女は真っ直ぐに真佐美を見据えた。
「この五年間。私は花を贈ることで、苦しさから逃れていたんです」
「――どういうこと?」
 彼女はその言葉を聞くと立ち上がり、床に跪いた。
「ちょっと、止めてよ。何のつもり?」
「お母様の死は私のせいなんです。本当に、申し訳御座いませんでした!」
 意味が分からない。
 目を白黒させた真佐美を、顔を上げた椛が見つめてくる。じっとりと背中を嫌な汗が伝った。
「私が“誘拐されていた子”です」
 思わず言葉を失った。
「私が熱を出さなければ良かったのに。本当に、申し訳御座いませんでした」
「ちょっと待って――犯人の知り合いって、被害者っていう意味?」
 それでは先ほどの無礼はなんだったのだろう。
 いや、確かに。誘拐された女の子には失礼だが、少女が死んでも母に生きて欲しかったと思ったことはある。
 けれどそれは言っても仕方のないことで、せめて女の子だけでも生きていて良かったと今では思うようになったのだ。
「いいえ。被害者でもありません」
「はあ?」
「誘拐なんてされてなかったんです。あったのは、監禁です」
「意味が分からないんだけど」
「なら、順を追って説明します」
 そういうと、彼女は服を脱いだ。
 縄で縛られたような痕、殴られたような痕――たくさんの傷痕で、白肌が埋め尽くされている。
「私、親に監禁されてたんです」
 予想もしない言葉に固まる。その間も、椛はじっと真佐美を見ていた。


「私は母親の不義で生まれました。自分で言うのもなんですが、父は金持ちの家の生まれです。嫁に入った母は金遣いが荒く、どんどん服装も派手になっていたそうで、父も頭に来ていたんだと思います」
 ゆっくりと言葉一つ一つを確かめながら、彼女はそう言った。どういう言い方をすれば良いのか迷っているようだ。そんなに凄い話なのだろうかと、真佐美は空唾を飲み込んだ。
「最初は母が内緒にしていたから良かったのですが、ある日祖母が事故で出血をし、緊急に輸血が必要になりました。祖母の血液は珍しく、血が足りない。他の病院から届くまでには時間がかかる。結果、親族内でも血液を採取することになりました。そして、念のため血液検査をした時にばれてしまったんです」
 低い声がいやに耳にこびり付いてくる。
 重苦しい空気の中、自分の呼吸音がうるさく聞こえた。
「結局祖母は亡くなって……それにより、父も情緒不安定だったのでしょう。顔を見たくないと母を追い出し、私を倉庫に閉じ込めたんです」
「倉庫?」
「ええ。蔵のようなものでそれなりに広さはありましたけど。寒くて暗くて、頑丈な扉からは音も聞こえなくて怖かったんです」
 寒くて暗い部屋。棺みたいだとぞっとした。
「それでも私が喚いたり、食事のたびに抜け出そうとしたりするので、父は反抗されたことが気に喰わなかったのでしょう。手足を縛り、その生活は続きました」
 監禁されたとはそういうことだったのか。
 でも、おかしい。それならば何故。
「でも警察は」
「ええ。そうです。私は誘拐されたことになっています」
 真佐美が問うよりも早く彼女が答えた。彼女がちらとこちらを見た。ぼんやりとしたけれどどこか毒を含んだような剣呑な目。ダークブラウンの、吸い込まれそうな瞳。
「――私、一人の男の人に恋をしたんです」
 唐突な告白に目をぎょっと見開く。
 彼女はにっこりと微笑んだ。
「多分使用人の、コックの一人です。ほんの少しでしたが、食事を運んでくれるたびに会話をしました。毎日の暗い部屋の中でそれは眩しいほどの光でした。私は彼を好きになり、彼も同じくらいの娘がいると可愛がってくれました」
 彼女があまりにも幸せそうに笑うから、彼への気持ちが痛いほど伝わってきた。胸が締め付けられるように苦しかった。
 だってそんなに幸せそうに笑うのに、好きでしたと過去のことなのだ。
 その理由はきっと、知っている。
「あとはあなたが知っての通りです。彼は、親の制止を無視し、高熱を出した私を連れ出して病院に急ぎました。そして、あの事故に……」
 誘拐なんて嘘だ。
 助けただけじゃないか。そのままにしておけば、今この子はここにいないかもしれないのに。
「私はもう蔵に閉じ込められたりはしません。でも、今でも時々報いは受けます。私は毎年、この日が来るたびにそれから逃れたくて、あの人に縋りたくて、自分のせいで死んでしまったことを謝りたくて、花を贈っていたんです」
 謝りたくって――その言葉に唇を噛む。
 そんなことはとんでもない。唐撫子の花言葉を知らないなんて言わせない。きっと、母を憎んでいる。そして、一人置いていった彼のことも好きと同じくらい憎んでいるのだ。そして何より、自分自身を嫌っている。
 あなた≠ヘ母であり、彼であり、自分自身でもあるのだろう。
 花を正面から渡さなかったのはそのためだろう。
(何て……脆い)
 縋る術をなくした人間は脆い。
 母を亡くしてから、真佐美も自身の弱さを嫌になるほど感じていた。その重さを、彼女はこんなに小さな体で一人で生きている。ずっと、人二人分の死を背負って生きてきたのだ。
 あの花束は、彼女なりのSOSだったのかもしれない。
 真佐美は自分でも知らぬうちに彼女を抱き締めていた。次いで、嗚咽が込み上げてくる。
「真佐美さん?」
 彼女がきょとんとした声で言った。
「――みましょう」
「え?」
「一緒に、この家に住みましょう」
「でも、私……」
「何者でも良いの。あなたも私も、一人で耐えるのも誰かを憎むのも疲れたでしょう」
 そう告げた途端、ぽろりと大きな目から涙が零れたのが分かった。
「良いんですか?」
 震えた声が問いかけてくる。ぐっとかかえた頭を強く抱いて、真佐美は頷いた。
「あなたの好きな人は多分今後も赦せないけど、それでも、あなたと生きたいわ。縋ってちょうだい。一人より、きっと楽よ」
「どうして……」
「綺麗に生きるのは、疲れたの」
 そう言って声を上げて泣いた。
 母の葬式にも泣かなかったというのに、もうすぐ三十にもなるというのに、幼い彼女に縋って泣いた。つられたように椛の泣き声も響く。二人して声を上げて泣いて、泣き腫らした目を見合って笑った。
 憎んで、泣いて、笑って、愛して――たまに一緒に紅茶を飲む。
 そんな関係も、良いだろう。
 命日に唐撫子の花束はもう届くことはない。けれど、胸に白薔薇を抱いて彼女と生きていく。きっと、永遠に。

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ということで、50000HIT記念遅くなりましたー。
ありがとうございます><
今後も頑張りますの意味をこめて、「百合」をテーマに書きました。
ぶっちゃけプロットなしでドキドキしながら書きました。
ああ、自分ダラダラ書くとこんな風になるんだと途中絶望しましたが、ようやく完成です。
今後も月光遊戯をよろしくお願いします^^
それではー!
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